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出産報告

5月23日の夕方、3,098gの男の子を出産しました。
母子ともに元気です。
息子は生まれた時、両手の指に3箇所の血豆が出来ていました。狭い産道を通った時に圧迫されて出来たものだそうです。
息子も頑張って生まれてきてくれました。
もう何でもいいじゃないか!『今日の芸術』

ある友人から一冊の本をいただいた。
岡本太郎氏の『今日の芸術』。
前から上手い絵を描きたいと思っていた私に、彼の芸術論を一読してみた方がよいとすすめられた。
読み終えた時の率直な感想は、もう芸術論なんてどうでもいいやという感じだった。
絵について悩んでいたくせにこんな感想を持つのは変かも知れないけど、芸術ってこうなんだ、こう作ってゆくべきなんだって、いざハッキリ言われるとそれが胡散臭く感じるというか・・・ああ、もう自分が感動するならそれが芸術じゃないか!という自由な気持ちになった。
本の中で岡本氏は、芸術は型にとらわれず常に新しいものを作り出すことだと主張し、『出る杭は打たれる』・『右へならえ』のような日本社会を批判していた。
私は彼の主張自体は的を得てると思うし、社会に対する切り込み方もよいと思う。
しかし、そう明言されると、そのような考え方さえ妙に窮屈に思えてしまった。
古いとか、新しいとか、何に価値があるのか・・・そんなことにとらわれていて何が作れるのだろうか。
真新しさを追求し、何かの枠を超えるものを作ろうとしたとて、岡本氏の考えに縛られてしまえばいずれは行き詰まり、退屈なものばかりになってしまう。
だから私はこう開き直る。
右にならいたいのなら右にならえばよい。その方向に自分が面白そうと思えるものがあるなら、素直にそちらに行ってみればよい。
既成であろうと流行であろうと、自分が興味を持ったのなら浅ましくあやかっているわけではないと思う。
単に流行物だからというだけで否定するのは、一見自分の意思のようだが実は反骨精神に酔っているだけ。知らず知らずのうちにそのような型にはまっていることになる。
楽しむことや感動することに理屈は必要ないはずである。
それでも自分の中に「何でもありだ!自分を信じよう。」という気持ちが芽生え、吹っ切れたような気分になれたのだからある意味この本の狙い通りなのかも知れない。(笑)
≫追記 2014. 8. 7
岡本太郎氏の『今日の芸術』のレビュー。
私は星3つのうもさんという方の感想とほぼ同じである。
何故かと改めて考えてみたら、すでに“開かれた時代”に自分がいるからだと思う。
例えばpixivなどに素人が絵を描いて載せてすごく人気が出て盛り上がったり、アニメやコミックイラストなどの浸透もあって、この本が書かれた50年前よりは大衆の創作に対する敷居がだいぶ低くなったのではないかと思う。
その点は岡本氏が願っていた世の中になったのだと思う。
しかし、アニメにはアニメの八の字文化がいずれは形成されてきてしまうわけで。まあ、その辺は後ろのページの解説で赤瀬川原平氏が少しだけ触れているのだが。
もし、岡本氏が現在もご存命であったなら、八の字文化を完全否定したり、前衛観念に呪縛されている芸術界というのもつまらないですよと意見を送りたい。
著書の冒頭でせっかくご本人が
「納得できないふしがあったり、反対の意見があれば、どんどん、ぶっつけてきてください。」
と仰っているのに、それができないのが残念で仕方がない。
ポルノどころか胸キュン映画『愛のコリーダ』
昨年の夏に引き続き、今年も内容の濃いDVDを観た。
監督は今年1月に故人となった大島渚氏。
“阿部定事件”をモチーフにしているので、登場人物や展開についてはその事件を調べてもらえればわかる。
※以下、多少ネタバレを含んでいるかも知れません。
この映画についてはすでにあちらこちらで多くの感想・批評が述べられてるので、自分なりにどう語ろうかしばらく考え込んだ。
本編の8割,9割を男女の性行為が占めており、特に性器の描写に当たっては決して日本ではそのまま上映できないような演出で撮影されている。
私は大島氏の試みや主演者たちの存在感、画面・構図の美しさ、舞台セットや音楽の完成度については、他の方々が述べる高い評価と同様に思う。
前に『熱海秘宝館のテーマ』で述べたような“エロ×高い芸術性=傑作”の方程式はこの作品にも当てはまった。(+α徹底したコンセプトがあるのだから方程式以上かも知れない。)
この映画には1976年の公開当時から「芸術か?ポルノか?」という論争がつきまとっているようだが、私はポルノ!というほど身構えて観る作品ではないように感じた。
それはやはり、あまりに純化された男と女の、主人公たちの世界に魅き込まれてしまうからだと思う。
万年床で耽美にふけっている男女の傍で、何事もないかのように微笑んで三味線を弾く芸者。
非日常の世界は日常(軍靴が響き始めた世間)に比べ、いたって平和である。
吉蔵が定を褒めれば定は喜ぶ。「嬉しい!」と舌足らずな少女のように。
吉蔵はいつもやさしいしよく笑うが、急に緊張したような表情を垣間見せるいまいち本音のわからない男である。
いつも離れない二人だが、吉蔵の口から出るのは「死ぬまで一緒ではなく」、「末永く楽しもう」。
定は吉蔵を真っ直ぐ見つめて話しかける。吉蔵は定を見ているがやや視線を外している。
あんなに近くにいるのに、眼差しがまぐわうことはほとんどない。
いずれ息が詰まるであろう箱の中、大人がする行為の繰り返しのはずが、不思議とこちらの心情的には10代のカップルを見ているようであった。
だから、とうとう定が吉蔵を絞め殺した時でさえ、その片割れがいなくなってしまったことがただ悲しかった。
「もーいーかい?」「まーだだよ!」
もう(逝ってしまった)かい?まだ(この世にいる)よ・・・・・・
夢の中で吉蔵の返事は消える。
目覚めた定はひとりになる・・・・・・・・・
そして最後に、定は二人の“思い出のもの”を持ち去る。
何のことはない。定と吉蔵にとってそれがすべてだっただけ。
ちなみに、クインシー・ジョーンズのヒット曲『Ai No Corrida』は、1980年にチャズ・ジャンケルが収録した曲のカバーである。
ケニー・ヤングという作詞家がこの映画に触発されて作詞し、チャズ・ジャンケルが作曲した。
その2年後、チャズの曲を気に入ったクインシーがディスコ・ミュージックにアレンジし発表したのである。
戦前の日本で起きた事件が最終的にはディスコ・ミュージックにまで昇華されてしまうなんて、人間の感性の連鎖は面白いものである。
事件当事者のお二方は今頃、あの世でどう思われているのだろうか。
2度目の『上村松園展』

名古屋市美術館で開催中の『上村松園展』に行ってきた。
彼女の展覧会は過去に一度、数年前に同県豊橋市で開かれた時に行ったことがある。
そこで見た『花がたみ』という作品にもう一度会いたいと思い、前売券を購入した。
今回の展覧会でも『花がたみ』は展示されており、額の位置が豊橋の時より下の方に設置されているように思え、より近づいて作品を眺めることができた。
『花がたみ』のモチーフは、帝の位につくため地方から都に上った皇子を恋い慕い、形振り構わず追いかけてきた平安貴族風の女性の姿である。
十二単からのぞく腕はその衣装を身に着ける者としては不自然なほど痩せており、ふくよかであるはずの顔も顎の形がはっきりわかる。
笑顔のようだが口もとが引きつり歪んでいる。
恋に狂った女性は十二単を引き摺り、足もとに扇子を落としたのにも気付かず、燃えるような紅葉が舞い落ちる中を皇子を目指して歩いてゆく。
もう一つ、豊橋展では見られなかった『焔』という作品が今回展示されているか期待していたが、残念ながら展示されていなかった。
『焔』は、『花がたみ』では狂女でとどまっていたものが、ついに怨霊化してしまったような作品である。
高校時代に図書室で偶然この絵を見て上村松園さんを知った。
専門学校の卒業制作のタイトルもこの作品からとった。
また、上記とはまったく違う雰囲気の作品なのだが、ふと心に残った作品がある。
『晩秋』という作品である。
障子に雪の結晶のような形に切り抜いた和紙を貼っている女性の絵である。
昭和18年作。ご時世は太平洋戦争の真っ只中。
表向きは働き者の主婦が障子を直しているから質素・倹約をテーマにしているようにみえ、規制に引っかかることなく発表できたのかも知れない。
しかし、よく見たら障子の当て紙は雪の華。さり気ない美意識や豊かさが散りばめられている。
挿絵画家の中原淳一も戦時中に制作した絵葉書で、更生服のデザインや配色を提案している。
改めて松園の作品を見て気づいた時、芸術とは本来、どんな社会下でも抑圧を擦り抜けて永遠に生き残ってゆくものなのだと確信した。



