昨年の夏に引き続き、今年も内容の濃いDVDを観た。
監督は今年1月に故人となった大島渚氏。
“阿部定事件”をモチーフにしているので、登場人物や展開についてはその事件を調べてもらえればわかる。
※以下、多少ネタバレを含んでいるかも知れません。
この映画についてはすでにあちらこちらで多くの感想・批評が述べられてるので、自分なりにどう語ろうかしばらく考え込んだ。
本編の8割,9割を男女の性行為が占めており、特に性器の描写に当たっては決して日本ではそのまま上映できないような演出で撮影されている。
私は大島氏の試みや主演者たちの存在感、画面・構図の美しさ、舞台セットや音楽の完成度については、他の方々が述べる高い評価と同様に思う。
前に『熱海秘宝館のテーマ』で述べたような“エロ×高い芸術性=傑作”の方程式はこの作品にも当てはまった。(+α徹底したコンセプトがあるのだから方程式以上かも知れない。)
この映画には1976年の公開当時から「芸術か?ポルノか?」という論争がつきまとっているようだが、私はポルノ!というほど身構えて観る作品ではないように感じた。
それはやはり、あまりに純化された男と女の、主人公たちの世界に魅き込まれてしまうからだと思う。
万年床で耽美にふけっている男女の傍で、何事もないかのように微笑んで三味線を弾く芸者。
非日常の世界は日常(軍靴が響き始めた世間)に比べ、いたって平和である。
吉蔵が定を褒めれば定は喜ぶ。「嬉しい!」と舌足らずな少女のように。
吉蔵はいつもやさしいしよく笑うが、急に緊張したような表情を垣間見せるいまいち本音のわからない男である。
いつも離れない二人だが、吉蔵の口から出るのは「死ぬまで一緒ではなく」、「末永く楽しもう」。
定は吉蔵を真っ直ぐ見つめて話しかける。吉蔵は定を見ているがやや視線を外している。
あんなに近くにいるのに、眼差しがまぐわうことはほとんどない。
いずれ息が詰まるであろう箱の中、大人がする行為の繰り返しのはずが、不思議とこちらの心情的には10代のカップルを見ているようであった。
だから、とうとう定が吉蔵を絞め殺した時でさえ、その片割れがいなくなってしまったことがただ悲しかった。
「もーいーかい?」「まーだだよ!」
もう(逝ってしまった)かい?まだ(この世にいる)よ・・・・・・
夢の中で吉蔵の返事は消える。
目覚めた定はひとりになる・・・・・・・・・
そして最後に、定は二人の“思い出のもの”を持ち去る。
何のことはない。定と吉蔵にとってそれがすべてだっただけ。
ちなみに、クインシー・ジョーンズのヒット曲『Ai No Corrida』は、1980年にチャズ・ジャンケルが収録した曲のカバーである。
ケニー・ヤングという作詞家がこの映画に触発されて作詞し、チャズ・ジャンケルが作曲した。
その2年後、チャズの曲を気に入ったクインシーがディスコ・ミュージックにアレンジし発表したのである。
戦前の日本で起きた事件が最終的にはディスコ・ミュージックにまで昇華されてしまうなんて、人間の感性の連鎖は面白いものである。
事件当事者のお二方は今頃、あの世でどう思われているのだろうか。


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